2006年

ーーー2/7ーーー 山の絵本

 昨年の春に訪れた富士見町の「高原のミュージアム」(マルタケ2005年4月参照)、その尾崎喜八のコーナーで、氏の著書「山の絵本」のことを知った。登山の紀行文集であるが、出版当初から登山愛好家の間でたいへんな評判を得たものだという。現在でも手に入ることを知り、自宅へ帰るとすぐに購入した。それを10ケ月ちかく経った今でも読んでいる。

 ストーリーがあるものではないから、少しづつ読むのに丁度良い。こんなことを言っては著者に対して失礼だとは思うが、実は自家用車のドア・ポケットにいつも入れてある。そして、ちょっとした待ち合わせの時などに目を通すのである。この冬は病院での待ち時間が多くあったので、だいぶ楽しめた。

 こんな具合で、少しづつ、つまみ食いのようにして読んできたわけだが、その度ごとに新鮮な感動を味わった。時間の都合で、ほんの2、3ページしか読めなくても、それで十分に感銘を受け、心が爽やかに満ち足りるのである。

 私自身が慣れ親しんだ、八ヶ岳、奥秩父、奥多摩などの山々が舞台になっているから、懐かしさと共に楽しめるのかも知れない。氏が山々に足を運んだ時代と、私が登った頃とでは、30〜40年の隔たりがある。しかし、なんとも懐かしい思いが、文面から湧き出してくる。まるで自分が一緒に山旅をしているかのような錯覚すら覚える。もっとも、私がこれらの山々に登った時期は、既に30年も昔のことになってしまったが。

 私のこのような心情を、単なる懐古趣味だと言う人もいるかも知れない。しかし、止まることのない悠久の時の流れというものを、肌身に近く感じる機会を願うなら、自然を舞台にした紀行文を読むのが相応しい。目の前の時を書き留めているから、時を超えて響くのである。そして背景の自然がそのまま変わらずにあるから、思いは重ね合わされ、高みに登るのである。



ーーー2/14ーーー 長野五輪の思い出

 トリノで冬のオリンピックが始まった。私は前々回の長野オリンピックの体験を思い出す。ボランティアとして働いた白馬アルペン会場のドーピング・コントロールである。

 競技会場におけるドーピング・コントロール業務は、対象選手をドーピング・コントロール・ステーションに出頭させることと、選手の尿を採取することの二つから成る。尿を採取する作業は、医師や看護婦の資格を持った者があたる。ボランティアが活躍するのは、対象選手を出頭させる「ドーピング・エスコート」の役目である。

 出頭させるといっても、これがなかなかややこしい。対象となる選手は、上位入賞者と、無作為抽出された選手数名である。これらの対象選手が確定すると、その選手にマンツーマンでエスコートが張り付き、一時間以内に出頭するよう通告する。そして、選手があやしい飲料や食物を取らないよう注意し、警告をし、警告が無視された場合は記録する。つまり選手がドーピング・コントロール・ステーションに入るまで密着して監視し、時間以内に出頭するよう指導するのである。一時間以内に出頭しなければ、選手は失格となる。出頭することは選手の義務であるが、間違いが無いように導くドーピング・エスコートの役目も重い。このような業務なので、ドーピング関係のスタッフ(ボランティア)には、競技会場のほぼ何処へでも入れる最高レベルのIDカードが与えられる。

 アルペン会場のゴール・エリアの興奮と混乱の中、時々刻々変わる順位に注目し、選手のゼッケンを追って居場所を確認する。そして順位確定と同時に、本人確認から始まる通告を行い、報道陣などの干渉を退け、時間内に出頭させなければならない。これは余裕を持ったスケジュールでもなかなか気苦労のある業務である。

 白馬アルペン会場での競技は、天候との戦いであった。のっけから連日の悪天候で、競技日程が進まない。朝4時に自宅を出て会場に向かったものの、山は吹雪。競技が中止となり、会場の駐車場から帰るという日が続いた。このままでは競技未了のまま大会が終わってしまうのではないかという不安が広がった。ドーピング・ステーションには「てるてる坊主」が並んだ。

 日程の終わりも近づいた頃、ようやく天気が安定した。そして、競技スケジュールが組み直され、それまで実施できなかった競技が圧縮されて詰め込まれた。過密スケジュールとなったのである。事前には絶対不可能とされた午前2レース、午後3レースなどという予定が発表された。これはドーピング・コントロールの業務にとっても、一大事であった。

 最後の二日間ほどは、ドーピング・ステーションは無茶苦茶な状態になった。大混乱に陥ったのである。それは容易に予想されたことではあったが、避ける事ができない事態であり、なんとかやりとげるしかなかった。アルペン会場のドーピング・エスコート約10名のチーフを任命されていた私は、事の重大さと難しさに圧倒された。混乱して頭が狂いそうになった。最後はトランシーバーで絶叫した。今から振り返っても、よくトラブル無しで済ませられたと思う。

 米国人のDr.コーエンは、ドーピング・コントロールの専門家であり、アトランタ・オリンピックで陣頭指揮に当たった人である。その人がスーパーバイザー(指導員)として長野に派遣されていた。氏は毎日いくつもの会場を回ってアドバイスや調整をしていた。そのコーエン氏が、全てが終わったときにこう言った。

「ミスターオオタケ、あんたのチームが全ての会場を通して一番優秀だった。とりわけ、極めて困難な状況の中、ノーミスで完璧に業務をやり遂げたことに対し、大きな感銘を受けた。私はこのことをレポートに残すつもりだ」と。



ーーー2/21ーーー 我が家のピザ

 ピザは我が家の人気料理である。しかし、ピザ屋さんの配達区域から大きく外れているし、また子供が全員いた頃は大量に食べたので、市販品では間に合わない。家内が特大サイズのものを作り、熱々のものに家族が群がるようにして食べるというのが我が家のピザ風景であった。

 家内は料理が得意である。なんて言うと「のろけ」と取られてしまうかも知れないが、実際のところなかなかの腕前である。しかし、彼女は料理学校に通ったことは一度も無い。子供の頃、実家で料理の手伝いをしたこともほとんど無かったそうである。私との婚約期間、実家から会社に通っていた時は、自分と私の弁当を、母親に作らせていたくらいである。そんな経歴なのに、よくもレシピも見ずに料理を作るものだと感心する。 

 写真のピザは、先日夕食のテーブルに乗ったものである。いっぺんに種類の違うものを何枚も作る。それぞれ味が違って楽しめる。もちろん生地も自分でこねて作る。

 ちなみにピザの下のカッティング・ボードは、私がクリの板で作ったものである。長年の間に油がしみ込んで、いい味わいになってきた。サイズは大判のピザに合わせて、40センチ×25センチとなっている。

 ピザ・カッターは、米国へ木工取材旅行へ行った際に、サンフランシスコのウイリアム・ソノマのショップで買ってきたもの。それ以前は、同じ構造だが華奢な作りの、国産のものを使っていた。それと比べてこのカッターは、しっかりとした作りで、とても使い易い。







ーーー2/28ーーー トリノ五輪女子フィギュアに思ったこと

 
左足を高く挙げて、左手を巻き付けるようにしてからませる。同じく天を指す右手と、まっすぐ下に伸びた右足で、体はYの字の形となる。そのYの字が、こちらへ向けてスゥーと近づいてくる。傾きが円弧運動のスピードと微妙なバランスを保ちながら、優雅な動きで近づいてくる。それをカメラが絶妙なアングルで捉える。

 某菓子メーカーのテレビCMのシーンである。いまだかつて見た事が無いような、美しい映像であった。そのスケートを演じていた荒川静香さんが、トリノ五輪、女子フィギュアで金メダルを取った。

 優勝後のインタビューで、荒川さんは「メダルが取れるなど考えもしなかった。ただ自分らしい演技ができ、楽しめれば良いと思っていた。この結果には驚いている」と語った。

 大舞台で自分の力を出し切ることの難しさがひしひしと伝わってくる。自分を最高の状態に持って行くのに、努力、気合い、計算、根性などという随意の部分だけではどうにもならないことを、一流のアスリートであるほど知っていると言う。それにプラスされるべきものを、「運」と言う人もいるし、「もう一人の自分」と表現する人もいる。

 私は常々、スポーツというものは、本質的には「自分との対話」であり、「自分探しの旅」であると考えている。子供にもそのように話してきた。もっともそれはスポーツに限ったことではなく、人間の全ての行為に共通するものだと思う。ただスポーツに於いては、特にはっきり認識できると思われる。

 人は思い通りにやれていると感じるときは、喜びはまだ八分である。何か得体の知れないものに導かれて、思いもかけない状況に転じたときに、最高の喜びとなる。スポーツの場合、その意外な喜びは、自分自身の中に発見される。忘我の境地として認識されるのである。だからスポーツの本質的な楽しみは、「自分の内なる呼びかけに気づくこと」だと思う。勝ち負けや記録は当面の目標たりうるが、真の目的はここにしかない。スポーツにはほとんど何の造詣もないが、登山などを通じて少しは極限的体験をしたことがある私の、これは持論である。

 ところで、荒川選手の数人後で、最後の番としてロシアの選手が演技をした。その選手の出来しだいで、荒川選手のメダルが、金か銀かのどちらかに決まるとアナウンサーが叫んだ。私はロシアの選手がジャンプをするたびに、着地に失敗すれば良いと願った。途中でそのことに気が付き、自らの精神の低劣さに愕然とした。

 荒川選手本人やご両親、指導者の方々が、仮に競争相手の失敗を願ったところで、責めることはできないだろう。これまで血の滲むような努力をしてきた人間が、最後の瞬間に勝利をかけて相手の失敗を願うことがあったとしても、それは恥ずべきことではない。それは競技というものが本質的に持つ、正当化される残酷さと言っても良いだろう。後に一抹の悲しみをもって思い出されるとしても、場の状況はそれを人間の自然な感情として受け入れる寛容さを持っていると思う。

 テレビの前の私はどうだろう。もし荒川選手が失敗をして、上位入賞を逃していたなら、「ちぇっ」とか言って不満をたれたに違いない。その程度のにわかファンである。それが、金メダルがかかったとなると、ムキになる。それも荒川選手に対する思い入れではない。日本人が金メダルを取るということにムキになっただけなのである。そのあげく、これも血の滲むような努力を重ねて来たロシアの選手の失敗を願うのである。

 私が願っただけで、相手が失敗をするわけでも無かろう。しかし、自分自身の問題としては、これもまた悲しい意味での「自分の発見」であった。

 ところで、スポーツ大好き人間で、小さい頃からそれなりに活躍をしてきた高一の娘にこの話をした。娘は、荒川選手はロシアの選手の演技を見ながら、失敗を願ったりしなかったと思うと言った。何故なら、同じスポーツを愛し、努力をしている人間に対して、そんな気持ちを持つはずは無いと。



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